思想史と言っても、論文が引用されているとか師弟関係にあった等々のはっきりした事ではなくて、「著者が関係ありそうと何となく思っている」程度の事だった。が、吾輩も最近は段々分かってきて「思想史」というのはこの本に限らずそういうものらしい。
 今日、反原発運動やってるのは左派か馬鹿ばかりに見えるのは何故か?という疑問の回答にはなっており、「資本主義批判運動の一環だから」。
 資本主義批判といえば共産主義支持であり左派そのもの。だが資本主義批判の先の共産主義は滅びてしまってな…。代わりにニューエイジエコロジーのオカルトが台頭してきてこれが馬鹿担当。

戦後の反核運動のある時期までは、ソ連や中国の原爆は「きれいな原爆」だという言説さえまかり通っていたが、それは、それ自体としては理由のないことではない。ソ連邦を中心とする社会主義ブロックが平和勢力であるという信憑は、このような無自覚的ロジックによって得られる。それゆえ、あくまでアメリカの核兵器に異を唱える事が重要なのであって、社会主義圏を含むその他の国の核兵器については、相対的に不問に付されるのである。

端的に言おう。1980年代反原発運動のバックグラウンドとしての「文化」は、革マル派毛沢東派の両輪によって、それも前者のヘゲモニーで形成されたのである。

広瀬の論理が杜撰であることは、当時から、つとに私的されていた。しかし同書は、その後の広瀬のウリの一つになるユダヤ陰謀論を基底にしており、全国各地を講演してまわる広瀬には、ほとんどカルト的と言っていい「信者」が集まった。

従来の反原発運動が基本的には冷戦体制と「平和共存」の枠内のものであったことは繰り返し指摘してきた。社会党の反原発の論理が「ソ連を利する」ものであったことも()同様に、ベ平連運動は()「ソ連を利する」ものであった。
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ところが、「ニューウェーブ」の運動は、もはや「ソ連を利する」必要がなかった。それはむしろ、チェルノブイリ事故を起こしたソ連邦に敵対していた。()「平和共存」の枠に規定されることがない非政治性ゆえ「ニューウェーブ」の運動はアナーキーなものになり

ストリートは大学の「知識人」にとって都合のいい場であるのかもしれない()今なおそこは、かつての「第三世界」のように、ロマンティックにイメージされているのであろうか。

それにしても本書、登場するキーマンが雑誌編集者とかライターばかりで政治家や科学者が全然出てこないな。

反原発の思想史―冷戦からフクシマへ (筑摩選書)