2001年だから20年前の本。
論文集であり、各章を別々の筆者が担当、最後の章で編者がそれを論評する形。そう、論文。論文なんだけど
このことは、日本人が韓国人の非をあげつらうとか、男性がフェミニズム叩きをするというような例を思い浮かべれば容易に理解されるだろう。
とか論文にも関わらず堂々と記載されていて、例え話に使われる程に20年前の当時は韓国人や女性に物申すのは内容に関わらずけしからん事という風潮が強かった事が伺える。学者が自ら信じる事であっても韓国人や女性相手には言えない、それが自明の良識とされるのが社会学。社会学恐るべし。
 あとまぁ「世に蔓延る暗黙の価値前提を見つけてそれは違うと言いだす学問(?)というか社会運動を支える為の理論武装」という成り立ちから当然っちゃ当然なんだけどみんな構成主義過激派で「それは本質主義だ」が悪口になるのも風変りに見える。
性別という「集団カテゴリー」は()社会制度自体の集団形成・秩序形成のために、あたかも「自然的」なカテゴリーであるかのように動員されてきたのである。
とか民族はまだしも、え?性別まで?
あるべき理想社会を構想する際、もっと現代社会は猿人・原人の群から移行した歴史や群の性別役割分担は霊長類というか群れ動物普遍という事実を取り入れずに良いものだろうか。自然主義的誤謬って言葉があるけれど…大自然が各時代各時代の当世流行のイデオロギーと必ずしも合致しないのは当然なのでアレはなんでしょうね。
多くのフェミニストが実際に論敵とした最大勢力はリベラリストであった()社会主義の影響を受けたフェミニズムにおいても当時リベラリズムは論敵であった。
 第二派フェミニズムにおいても、リベラリズムは否定的な評価を受けることがしばしばである。()マルクス主義フェミニズムにおいても()「解放の理論足り得ない」社会理論と評価されることになる。ポストモダン・フェミニズムにおいては、まさにこの啓蒙のドクトリンこそが、近代西欧人間=男性中心主義を示すものとして、脱構築の対称となっている。
脱構築…そいえばポモの人達、みんな何処へ行ったんだ…。
社会主義政権下では、多くの場合、ある種のアファーマティブアクション的な政策がとられてきており、現状はむしろそれへのバックラッシュとして生じていることが多い。今日、ロシア・ナショナリズムやセルビア・ナショナリズムが噴出しているのは、社会主義時代にそれらの民族の主導性をあからさまに主張することが抑えられていたことへのルサンチマンから生じている。アジア優遇に対するグルジアの反撥とか、コソヴォ優遇に対するセルビアの反撥も同様である。
まず全体として性の商品化が、性犯罪を増加させるのか、という問いに答える必要がある()少なくとも強姦については、日本の中でさまざまな性の商品の流通にもかかわらず、認知件数は激減しており、性の商品化が強姦を増やすとの立論は、不可能ではないがかなり難しいと思われる()効能もない、「くず」のようなものと思われるからこそ、そこで因果関係が逆に措定されて、ポルノグラフィティが性犯罪を生み出す、と言った言説が流通するのだろう。これは近代の医学で、マスターベーションが精神異常を引き起こすと信じられていたことと、通底するような現象だ。
要するに保守主義や近代主義のような性に関して抑制的な規範が滑り込んでいるからこそ、性の商品化が問題だ、という議論が成立するのであって、これを前提にしないと、商品になることそのものの批判ではなく、その内容や随伴現象に関する批判しか残らないのである。
また日本は世界的に見ても女性向けのポルノグラフィの極めて発達した社会の一つである。()こうした女性向けの商品が、その内容において、「性差別的」との批判を免れるようなものでは必ずしもない、という点である。たとえばレイプや痴漢にまつわるストーリーというものはレディースコミックの典型的な話題を形成している。だからといって女性が実際のレイプを望んでいるわけではなく、平均的な女性を対象とするファンタジーとフェミニスト・パースペクティブとか必ずしも一致しない、というだけのことである。
「見たくない自由」と「見たい自由」の両立()どういった社会的合意や規制が可能かという問題である()つまり特定の性規範や特定の内容について合意するのではなく、ある手続きが守られているかどうかについてのみチェックをし、それがクリアである場合には、内容については踏み込まない、という姿勢をとるのである。そしてこれこそがリベラリズムの核となる発想である。井上達夫が明確に打ち出したように、リベラリズムとは「良き善の特殊構想」から「基底的正義」へとその合意の基盤を移す事である。