数年前までは、「哲学」の主要言語はドイツ語もしくはフランス語と相場が決まっていたが、このところ英語圏、とりわけアメリカ産の哲学が流行っている。()
90年代前半の主流はあくまでドイツの現象学や、フランスのポスト構造主義といった極めて”複雑”なジャーゴンを使う哲学らしい哲学であって、明晰な言葉をつかい、ミニマルな論理で済ませようとする傾向のある英語圏の哲学は”典型的な哲学少年”たちを左程魅了していなかった。例えば、現象学的マルクス主義の大家である故・廣松渉は1990年2月に()ジョン・ロールズの正義論を"古い!"と一蹴している。

「特殊法人整理」「独立行政法人化」「不良債権処理」「年金制度改革」などの具体的問題を論じるに際して、現在の日本が「ブルジョワ国家」であり「ブルジョワジー」はその「階級意識」に基づいて自らの利益(=剰余価値)を最大化するために「プロレタリアート」を搾取する壮大なプロジェクトを遂行している、という形而上学的な前提を丸呑みしないかぎり成立しない主張を延々と繰り返して、自分では現実だと信じて疑わない人達がいる。
マルクス=エンゲルスでさえ、労働者運動の対立軸をはっきりさせるために「ブルジョワジー/プロレタリアート」の二項対立を描き出したに過ぎないのであって、二つの階級の”実在性”を証明したわけではないーむしろ、そうした形而上学的議論は避けていた節がある。
伝統的左翼だけでなく、最近、政治的発言をするようになったポスト・モダン系左翼の議論にも、かなり形而上学的な前提に依拠しているものが多い。「世界システム」とか「アイデンティティー・ポリティックス」「エクリチュール」「制度化」などに対抗するというスローガンは「ブルジョワジー」に対抗する場合よりも、さらに曖昧になりがちである。
そういえばソーカル事件のお陰でフランス系はすっかり株を下げたというか、何を言っているか分からないのは読者の理解力不足ではなく、そもそも元が寝言譫言戯言だからだとバレてしまってスーッと人気が無くなったなぁ…。

上から抑圧してくる「啓蒙主義者」も下から拘束してくる「差異主義者」も本当の「対話」を回避して「独りよがり」を押し通そうとする点ではよく似ている。
左翼ぶっていても、全然「弁証法的」ではないのだ。左翼にとっては、今更言うまでも無い事の筈だが、「弁証法」の原義は「論理」を異にする他者同士の「対話=二元論的状態」ということである。「異なる論理」は、「反動」や「差別」として沈黙させるか、上手く取り込んでしまうと予め決めてかかれば、スターリン主義的な共産主義の教科書に書かれているような、インチキ弁証法しか生まれてこない。

増補新版 ポスト・モダンの左旋回
仲正 昌樹
作品社
2017-01-25